曹操孟徳

幼少から青年までの曹操の生育環境とはどのようなものであったのだろうか。名望家に生まれ、祖父は宦官、その養子である父は高官であった。しかしその官位はお金で買ったものであったようだ。

分析1

曹操がこの事実をどのように受け止めていたかはわからない。「金臭い」と父を皮肉ったようなエピソードもあるが、悪い影響はなかったようだ。比較的裕福な環境に育ったこと、高官の出身となったことは出世にプラスの作用をもたらしている。

曹操は名門子息たちと共に学んだ。その時代、曹操は勉強よりも、仲間を集めて悪さばかりをしていたようだ。しかし、その一方で、古学を学び、剣術を身に付けていた。曹操の容姿や性格はどのようなものであったかというと、風采あがらず、小柄で、身なりは地味であったという。冷静非情でありながらも、気さくで冗談を連発するようなところもあった。また歌や詩を愛する芸術家肌な一面がありながら、合理主義者で能力至上主義者でもある。この曹操という人物の二面性や多面性は万能性へと通ずるもので、古来昨今、天才という者は万能者であることが多いのである。

分析2

曹操という人物は古学を身に付けていた。この後、官僚になり、君主となり、最大勢力国を建国するにいたる人生において、曹操の哲学は「孫子」を主として古学に基いているのである。

やがて二十歳になった曹操は孝廉に推挙され、官吏候補者たる「郎」に推挙される。そして、すぐに洛陽北部尉に任じられる。役人になった曹操は現代でいうならば治安を守る職務についた。しかも洛陽という漢朝の首都でである。もちろんそこには高位高官が多くいて、そのような人たちが法を犯すようなことも少なくなかったが、曹操は誰であっても容赦なく厳格に法令を実行して処罰していったという。やがて、曹操は洛陽北部尉での能力を認められ頓丘県の令に任命される。ここで数年を過ごすことになるのだが、そこでも曹操の治能ぶりは変わらなかった。そして、曹操は「義郎(天子の顧問)」に任じられ中央に呼び戻されることになる。

分析3

法治主義を貫く曹操の姿が浮かんでくる。これによって曹操の名声は高まったが、高官たちはそんな曹操を煙たがり左遷させられてしまう。それが頓丘県への異動であった。しかし、頓丘県の県知事時代の曹操も厳正な法の下に高官民衆を問わず公平な政治を実施し、それが好評で評判となったのが義郎に任じられた理由であった。この法治主義とその下に公平平等主義を曹操が厳正に実行したのは、おそらく兵法書「孫子」の哲学を実行したからであろう。この先さらに曹操の行為には「孫子」を忠実に手本としていると思われることが多々あるのである。
やがて三十歳の時に義郎を辞すと、黄巾党の乱が勃発し、曹操も騎都尉として討伐に乗り出すことになる。全身赤鎧に身を包んだ曹操は黄巾党討伐で大活躍する。そして、その功績により済南国の相になり、またすぐに河北省の太守に任じられる。

分析4

曹操は若いときから兵法の知識があったようだ。もともと高官の家系なので、武官として受け継ぐものはなかったはずである。しかし、おそらく青年期に、勉強よりも古学などの実学を習得していたのだろう。


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