関羽雲長

出生は不明瞭であるが、解県という塩の産地に生まれたという。関羽はそこを出奔したとあるが、その理由は、どうやら役人ともめ事を起こしたためらしい。当時、塩というのは国家の専売品で、関羽もしくはその仲間たちがそれを密売しており、それが露見したために追われる身となって、劉備の暮らす村の近くまでやってきた、というのが最も説得力のある説である。そこで関羽は子供たちに読み書きなどを教えて生計を立てていたらしい。

分析1

子供たちに読み書きを教えていたとき、関羽は二十歳前後である。すでに子供たちに読み書きを教えるほどの教養を身に付けていたことになるが、いったいどこでその教養を習得したのだろうか?筆者にも謎のままである。

やがて黄巾の乱が起こると、義勇軍の呼びかけに応じ、劉備、張飛と共に討伐へ参加する。このときに三人は義兄弟の契りを結ぶことになる。

分析2

「桃園の義」は「三国志演義」の創作であると言われているが、どちらにしても、劉備と関羽と張飛が義兄弟の契りを結び、寝食を共にしていたことは事実である。孔明が現れるまでは、関羽が劉備の「ブレーン」的な役割を担っていたが、もともと関羽は「パフォーマー」タイプの人材であり、後期になると、関羽では「ブレーン」的な仕事を考えたときに役不足となってしまう。

その後、劉備と行動は同じで、平原、除州へと移動していく。そこで曹操に捕らえられ、説得させられた関羽は、客将として曹操軍に迎えられることになる。

分析3

もちろん、劉備の生存が明らかになった場合には直ちに劉備のところへ馳せ戻るということが前提の投降である。しかし、果たしてこの時の関羽の心中がいかなるものであったかは一考の余地がある。あくまでも劉備の生存を信じていた。すでに劉備が生きていることを何らかの方法で知っていた。劉備は死んでいるかもしれないが、劉備の二夫人を擁護しながら生きていくことで忠義を貫こうとしていた。いずれは曹操の家臣になってもよいと思っていた。などいくつか考えられるが、真意のほどはわからない。

曹操の客将として関羽はかなりの厚待遇を受けていた。文武に優れ、忠義の士である関羽を曹操が溺愛したからである。

分析4

しかし、関羽の気持が曹操になびくことはなかった。その理由には思い当たるところがある。この少し前に、劉備、関羽、張飛は呂布に居城を奪われ困っているところを曹操に救われ許都にいたことがある。おそらくその時に、関羽は、曹操が皇帝を蔑ろにし、自我の思うがままに振舞う態度を目の当たりにして、強い反感を抱いたと思われるのである。


こだひま情報発信部
トップページへ戻る
2ページへ進む
古学人間学三国志編
トップページへ戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送