趙雲の生まれは河北省である。その年齢はいまひとつはっきりしないが、劉備よりも上であったと考えられる。河北省といえば、当時勢力を広げていたのは公孫讃である。そこで趙雲は客将的な扱いで仕えていた。その頃に劉備と会う機会があったが、趙雲は家庭の事情から帰国し、この時は劉備たちと行動を共にしていない。やがて、公孫讃は仕えるにあたらずと思った趙雲はそこを去り、再び客将として遠紹に仕えることになる。

分析1

公孫讃時代も遠紹時代も客将として仕えている。一つには、どこの馬の骨とも分からない趙雲を、公孫讃も遠紹も重用しなかった。二つには、趙雲自身も、両者は仕えるにあたらずと思っていたからである。

しかし、遠紹も仕える君主にあたらずと判断した趙雲は、その時、遠紹の下に身を寄せていた劉備と再会する。そして、劉備と意気投合すると、そのまま劉備に付き従がうようになった。

分析2

名家出身でもなく、いまださして活躍を見せていない趙雲に対しても、劉備は謙虚に接したにちがいない。趙雲もそんな劉備に深く心服し、また民を大切にする仁者ぶりに感じ入ったのだろう。劉備は趙雲とも寝食を共にし、関羽や張飛と同じように信頼した。

その後は劉備と共に荊州の劉表の下へ。その七年後、曹操軍が荊州に侵攻してくる。その敗走中に有名なエピソードがある。趙雲は四方を曹操軍に囲まれながら、阿斗を救出すると懐に抱え、ただ一騎で、まるで無人の野を行くかのように曹操軍の囲みを突破。劉備の下に無事阿斗を届けるのである。
赤壁の戦いの後、荊州南部攻略戦に参加すると、桂陽を陥とし、その太守となる。そこで趙雲は、降将で前桂陽太守の趙範に、その兄嫁の美しい未亡人を娶ってほしいと薦められたが、それに対し趙雲は大激怒した。

分析3

趙雲がこの縁談を受け入れず激怒した理由はこうである。まだ桂陽の民は劉備に心服していない。もしその中で部下である自分が降将前太守趙範の兄嫁を娶ったとしたら、必ず悪い噂が立つ。そうすれば民の支配に悪影響を与える。ということであった。このあたりの判断の良さというのは、関羽や張飛に優るとも劣らない武勇を持ちながら、自分を見失うことのない冷静さを持ち合わせていたことを物語っている。

荊州北部も奪回すると、益州攻略戦にも参加し、大いに功績を残した。成都に入った劉備は、戦功のあった各将に益州の土地を分け与えるなどの論功行賞を行おうとした。しかし、趙雲はそれに反対した。

分析4

反対した理由は次のとうりである。益州の民はまだ劉備を信頼してなく、戦禍によって疲弊している。それなのに劉備配下の武将が我物顔で振舞えば、民の気持はきっと離れてしまうだろう。それよりも今は、益州の民の貧困を救うことが大切であり、そのような論功行賞はしないほうがよい。という訳である。
桂陽でのエピソードも成都論功行賞でのエピソードも、趙雲が主張していることは同じである。ここに、趙雲の信念というものがあるのではないだろうか。それは「常に民を大切にするべきである」という考え方である。もちろんこの考えは劉備や孔明とも合致するところである。

趙雲子竜


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