劉備玄徳

「三国志演義」の作中では義人・人徳の人物として描かれています。「正史三国志」ではどうかというと、それとは別に、成功のため、生き残るために必死で苦労を重ねる人物という感じを受けます。
劉備は琢県の小さな村で生まれました。血筋は中山靖王劉勝の子孫で、祖父、父親ともに地方官を務め、父親は県知事にまでなっています。しかし、その父親が劉備の幼い頃に病死すると家は没落、母親と共に草履やむしろを売る貧しい生活をしいられることになります。やがて十五歳に成長した劉備は洛陽に遊学します。その費用は親戚の叔父に出してもらっています。けれども劉備は学問よりも狩猟や音楽、服飾などに興味を持ち、それをより好んだようです。

分析1

エリートの血筋でありながら没落し、貧しい少年時代を過ごしたことが、民衆の苦しみを知ることとなり、その後の劉備の人徳者としての行動を生んだと考えられます。

分析2

遊学したが学問はものにならず。しかしこれは劉備が学者や「ブレーン」タイプの人材ではなかったということであり、決して無能であったということではない。遊学時代名士に学んだことは後の人生に生かされたはずである。

分析3

劉備は、口数少なく、立派な体格で、誰にでも謙虚な態度で接し、常に落ち着いていた、とある。それでいて男同士の付き合いを重んじ、後輩の面倒見が良かったという。そんな劉備に自然と仲間が集まり、彼を中心としてまとまっていったのも当然といえば当然と言えるのかもしれません。

分析4

しかし容姿や血統などだけでは魅力に乏しい。多少なりとも見識の高い人物に対すれば化けの皮はすぐに剥がされてしまう。やはり特筆すべきは「誰にでも腰を低くして接した謙虚な態度」だろう。それによって多くの人材をひきつけた。また、これによって痛い目をみることはあっても、決して人に恨まれることはなかったのである。実は、これが非常に重要なことだと考えられるのではないだろうか。

洛陽の遊学から帰郷した劉備の下にも周囲の若者たちが集まってくる。どうやらその仲間たちで裕福な商人の護衛などをしていたようだ。やがて黄巾の乱が起こると、劉備は関羽や張飛という有能な「パフォーマー」を得て義勇軍を結成し、黄巾党討伐へと出陣していく。そこで数回の活躍をみせた劉備は、地方の小役人に任命されることになる。しかし、役所務めは肌に合わず、出奔してしまう。

分析5

賄賂が横行し、民衆を苦しめることは出来ても、救おうとはしない小役人や官僚たちに嫌気がさした。また、このままここで安泰に小役人を続けていても、漢朝再興という目的を達することは出来ないと感じたのだろう。この夢を追う意志の強さが人々をひきつけた魅力の一つではないだろうか。


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