河北省太守に任じられ、すでに名のある存在となっていた曹操は、天子廃嫡のクーデターに誘われたり、当時の大将軍何進に宦官殺害についての意見を求められたりしたが、いずれも反対を唱え参加していない。

分析5

クーデターの準備不足や宦官を排するのに外力を利用するのは下策であるなど、曹操はもっともな意見で反対しているが、その本意はどこにあったのだろうか。宦官の殺害については、祖父が宦官であるから反対したという説もあるが、それは曹操の性格上納得いかない。それよりも若き頃の曹操には漢王朝に対する忠誠というものを感じるのである。この頃の曹操はあくまで漢王朝の中での立身出世や自分の力を試すというような動機で生きていたように思われるのである。つまりあくまで漢王朝を支える忠臣として出世しようとしていたと思われるのである。まだこの頃の曹操は「治世の能臣」であったのだ。

何進に意見を求められた時には、曹操は河北省太守から典軍校尉に任じられて中央政界に戻されていた。しかし、何進は殺され、洛陽は董卓に支配されてしまう。漢の皇帝も董卓によって擁立され、すでに漢王朝の威厳は地に墜ちていた。

分析6

この時に曹操は漢王朝の没落を肌で感じたにちがいない。そして天子を擁立し、権力を欲しいままにする董卓に対し強い反感をおぼえただろう。しかし、まだ曹操自身が中原を制するという野望を意識したとは思われない。

曹操は董卓暗殺計画に参加する。しかし、計画は事の前に露見し、曹操は追われる身となってします。そして、命からがら故郷へと逃げ帰ることになる。

分析7

今までクーデターなどの行動には慎重であった曹操が董卓暗殺には非常に積極的であった。それは、董卓が漢王朝の反逆者であり、暴政をふるう悪政者であったからであろう。正義の心とも言える。

故郷に戻った曹操は故郷近くの陳留で挙兵する。三五歳であった。そして三六歳の時に反董卓連合を結成。しかし、連合軍は崩壊、曹操も敗戦し、本拠地に撤退することになる。

分析8

曹操が挙兵した理由は、一つには董卓に対する反感と漢朝再興という正義感、二つには追われる身となり、殺される前に殺してやろうという考えから、などが挙げられるだろう。この逃亡中のエピソードとして有名な「我をして人に背くとも、人をして我に背くことはなららしめん」という逸話がある。これは曹操が自己中心的で非情であるということを顕著に物語ものとして伝えられているが、果たして本当にそうなのだろうか。曹操をかくまってくれた叔父とその一家や従僕までを殺害した理由については、勘違いで皆殺しにしたという通説以外にも二つ考えられる。一つには、実は曹操の思い違いでもなんでもなく、本当に叔父一家は曹操を殺害しようとしていた。二つには、このとき曹操は追われる身であり、一種のパニック状態にあったと考えられることである。今までずっと出世の道を順調に歩んできていたが、一転して命を狙われる身である。天才的な能力の持主であるとはいえ、まだまだ青顔の士である。毒に揉まれるのはまだまだこれからである。したがって、これが曹操の本性とは考えられないのである。


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