劉備が漢中王となると、関羽にも北伐の命令が下る。漢中と荊州の二方面から攻めるという孔明の戦略からであった。しかし、関羽は北攻進を優勢に展開しながらも、呉の裏切り(この頃劉備軍と孫権軍は同盟関係にあった)や部下の裏切りによって敗北してしまう。そして、呉軍に捕らえられた関羽は斬首となり、養子息子の関平と共に命を散らした。

分析9

関羽は北伐にあたって呉の領内にある穀倉地帯を襲って食料を強奪していた。さらに、手際の悪い部下の将に厳しくあたっていた。このことが後の裏切りの引き金となったのである。

最終分析

討ち取った雑兵・敵将は数知れず。さらに、顔良・文醜などの勇将を倒し、黄忠でさえもかなわなかったその武勇は抜群である。また「春秋佐事伝」が愛読書であり、高い教養を身につけた人物で、まさに文武両道の人物であった。時の漢皇帝から「美髭公」と贈り名され、曹操からも孫権からも恐れられた関羽の名声はとても高かった。
しかし、それが禍の種となった。関羽北伐の失敗を招き、死を呼び込んでしまったと考えられる。しかし、それだけが関羽軍が敗北した原因とはならない。関羽は荊州を守備し、劉備軍の一翼というよりは、荊州を統治する君主的な存在となっていた。しかし、関羽は「パフォーマー」タイプであり、知識策略を有しない剛直なタイプであるから、「リーダー」や「ブレーン」タイプの人材が関羽軍に必要だったのである。「リーダー」は遠くにありながらも、劉備という存在がおり、関羽は義理堅く、劉備に対する忠誠は完璧であったので問題なかったと思われるが、「ブレーン」タイプの人材が関羽軍団に不在だったのが、関羽軍という組織を敗北させてしまった原因だと考えられます。

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