関羽は曹操に心から服してはいなかったが、官渡の戦いでは、遠紹軍の勇将である、顔良、文醜を討ち取って大きな戦功を残している。しかし、やがて劉備が生存しており、遠紹軍から離脱したことを知ると、曹操の引き留めを振り切り、劉備のところへ向かうことになる。いわゆる「関羽の千里行」のエピソードである。劉備や張飛と合流した関羽は、紆余曲折あった後、荊州へたどり着く。関羽はその地で七年もの間過ごすことになる。

分析5

この時期に、関羽がどのように過ごしていたのかについては詳しい記述はない。関羽は教養人ではあったが、元来「剛」の者であり、「パフォーマー」タイプの人材であるから、この先の展望や戦略策略は思いつかずにいたのだろう。

分析6

劉備が孔明を迎え「水魚の交」をしたことに、関羽や張飛は抗議したというエピソードがある。苦楽を共にした自分がないがしろにされ、新入の若者に魅入られ熱をあげる劉備に嫉妬のような気持を抱いたのだろう。

孔明を得た劉備軍は、曹操に攻められ敗走するものの、赤壁の戦い、荊州南部攻略戦で勝利していく。その中で、関羽は、黄忠との攻防以外は留守をあずかる将軍として配置されることが多くなっていく。荊州を手中にした劉備軍。やがて益州攻略に動き出すと、関羽は荊州の守りを任じられることになる。関羽と孔明は荊州の守備に残ったのである。

分析7

最初は反発したが、孔明の実力を知ると、関羽の心中にあった反孔明心は失われていく。しかし、孔明が関羽を守将として重く用い、前線への侵攻役としてはあまり用いなかったという点が疑問となる。その理由としては二つほど考えられる。一つは、張飛と比べ関羽は思慮深かったので、武勇とあいまって守将として安心して任せられたから。二つには、超雲と比べると関羽は自尊心が高く、たとえ孔明への反発心が無くなっていたとはいえ、孔明にしてみれば扱いづらかったのではないだろうか。すでのこの頃、関羽は四方に知られた英雄の一人であり、そのことを孔明が意識していたとも考えられる。また、すでに荊州に本拠地をかまえた劉備軍には、益州を手に入れ、荊州と益州を統治するという戦略があった。関羽もそのことを理解し、荊州の重要性を理解していたとも考えられる。

やがて、孔明も益州に入ると、荊州は関羽のみで守備統治することになる。それから数十年、関羽は荊州という要地を守備し続けるのである。

分析8

孔明や劉備は、関羽のプライドの高い気質を知りながらも、厚く信頼していたのであろう。この頃から時が経過するにつれて、荊州の王として、ますます傲慢になっていったであろうと考えられるが、それは敵対国や無能な部下に対してであって、民衆や良民に対しては徳政を布いて良く治まっていた。劉備が益州を手に入れると、益州は劉備が、荊州は関羽が、という二分統治のかたちとなった。関羽は事実上、荊州王となったのである。


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