張飛翼徳

張飛は劉備が暮らす村の近くで生まれた。そこで肉屋を生業としていた。また、その豪腕をもてあまし、一平卒として戦に参加していたりもした。そこで、劉備、関羽、張飛は義兄弟の契りを結ぶと、商隊の護衛などをしていたが、やがて、黄巾の乱が起こると、義勇軍を結成して討伐に出ていく。三人は黄巾党討伐で功をあげると、劉備は平原の相となり、張飛はそれに従がって平原の地に赴く。しかし、すぐにそこを出奔すると、三人はそれぞれ身を隠すために別行動をとった。張飛は山賊のようなことをしていたようである。その後、劉備と関羽と共に公孫讃と遠紹の戦に参加したりしながら除州にいたる。そこで呂布に急襲され、居城を奪われるという事件が起こった。その原因は、張飛の酒癖の悪さにあった。留守を任された張飛は大酒を飲み、配下の武将に暴力をふるうなど侮辱行為をした。それに憤慨した部下の将が、呂布を導く手助けをしたのである。

分析1

張飛は大の酒豪であり、典型的な剛の者である。血の気が多く、その武力をいかして何かしてやろう、名をあげてやろう、そういう若者の勢いのようなものが若き日の張飛からは感じられる。単純であり、しかし、そうであるがために愛嬌がある。小難しいことや、ずる賢いことは考えないが、純粋であるがために、物事の善悪だけは間違わない、というのが張飛という人物である。しかし、その酒癖の悪さや、部下に対する暴力的な傾向は、張飛最大の欠点といえる。その点に関して、劉備は再三にわたり張飛に注意していたようである。また、張飛は、自分より下の者に対してはひどく粗暴になる、という反面、自分が敬う者に対しては子供のように従順になるという性分をもっていた。

居城を奪われた後は曹操の庇護をうけ、そして再び除州に戻ったのは三人一緒である。しかし、すぐに除州を曹操に攻められると、劉備は遠紹の下へ敗走し、関羽は曹操に降伏し客将となった。そして、張飛はというと、山の古城で山賊をしていたとある。どうやら三人が再会するまで山賊をしていたようだ。

分析2

張飛は困るとすぐに山賊をしていたようである。しかし、数十人か数百人かわからないが、すぐに手下を集めて山賊になるというのも、ある意味なかなかできるものではない。ずっと張飛に付き従がう部下もいて、それだけその武力には魅力があったのだろう。そのあたりは呂布にも共通してみられる。

やがて三人は合流。除南で曹操に敗れると荊州に移動する。荊州での長い年月の間に張飛がどうしていたかはやはりよくわからない。しかし、荊州が曹操に攻められ敗走するときに、張飛人生最大の見せ場がやってくる。いわゆる「長橋坂」のエピソードである。張飛は曹操軍二十万に対し、単騎で戦うことのできる一本橋の長橋坂に一騎で立ちふさがると、次々に襲いかかる曹操の将兵を一蹴した。その武勇を見た曹操や敵兵たちは恐れをなしたという。その後は荊州南部攻略戦で活躍。そして、益州入りにも途中参加すると大きな功をあげた。益州入り後は巴西地方を統治守備していた。

分析3

益州に侵攻した頃には、張飛は四十歳前後であったが、若き頃の血気盛んなだけの人物から、少しづつ成長した姿がみられる。孫夫人が劉備の子である阿斗を連れて呉に戻ろうとするのを察知し阻止したり、益州には厳顔という老将ながら知勇兼備の武将がいたが、それを知略で生け捕りにし劉備に仕えさせるなど、将格というものがみられるのである。


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