分析5

そして趙雲のもう一つの特徴は、相手が劉備であっても孔明であっても、正しいと思うこと、または自分が信念として思うことは躊躇なく発言したことにある。忠実な部下であり、作戦実行能力に優れた「パフォーマー」タイプの鏡のような人物ではあったが、決して「イエスマン」ではなかったのである。その「仁政の下に」「仁政者に仕える」という信念を持っていたことは、劉備への義にのみ生きた関羽や張飛と異なるところである。

分析6

実は孔明が最も信頼したのは関羽でも張飛でもなく趙雲であった。また趙雲もそれに応えて確実に孔明の作戦を実行した。孔明と趙雲の仲は良好であった。年若く実績のない孔明に対し、関羽や張飛が少なからず反発心を抱いたのに対し、趙雲はそのような感情を抱くことはなかったようだ。冷静な目で孔明を認め、劉備が信頼する孔明を、趙雲も疑うことなく信頼したと考えられる。このあたり、軍務や政策に私情をはさむことは決してなく、それが関羽や趙飛と比べても、作戦遂行能力が抜群に優れていた理由であろう。

劉備の最後となる関羽の弔い合戦にも趙雲は異論を唱えている。

分析7

関羽の弔い合戦は明らかに私情であり、無意味に民や兵を苦しめることになる。さらに、本当に戦うべき敵は「呉」ではなく「魏」であり、呉と戦うことは下策である。趙雲はこう劉備に進言した。しかし、劉備はこれを受け入れず、趙雲を後守に配し従軍させなかった。その結果は予想以上に最悪なものであった。

分析8

この少し前に、劉備が呉の政略というか策略に乗せられ、呉に軟禁させられるというエピソードがある。年若く美しい孫夫人と贅沢な生活を与えられた劉備は、荊州に曹操が攻めてきたという報がもたらされても、呉から荊州に帰ることをためらうほど骨抜きにされていた。この時に劉備のお目付け役として従がってしたのが趙雲であった。この劉備の状態に危機感を抱いた趙雲は孔明に相談し、孔明の作戦に従がって、劉備を荊州に帰還させることに成功するのである。

分析9

趙雲という人物、どうやら劉備にとっては、劉備が間違った道に進もうとしている時に必ず諫言してくれる存在であったようだ。そのような趙雲を信頼し、よくその諫言を聞き入れる劉備に出会ったことは、趙雲にとっても幸運なことであっただろう。公孫讃や遠紹に見切りを理由もそこから察し得ることができる。

劉備の死後も重臣として劉禅や孔明に信頼が厚かった。第一次北伐に敗れ、その殿として趙雲は大活躍した。その趙雲に対し、孔明は厚く恩賞を与えようとしたが、趙雲は「それらの品々金銭は冬の準備に用いてください」と言って受け取らなかった。その第一次北伐後、趙雲は没してしる。その時の孔明の落胆は関羽や張飛を失った時よりも大きかった。

分析10

趙雲の頭の中には、常に「民のため」「兵のため」という信念があり、それをかたくななまでに曲げることはなかった。清廉、実直、剛胆、これらの言葉がこれほど似合う人物は他にない。名声や富は望まず、劉備や孔明に対し常に実直で義理堅く、時には諫言も辞さずに発言し、作戦遂行にあたっては疑いや怖れの気持を抱かなかった。名声に溺れないところは関羽と異なり、民や兵を常に思いやったところは張飛と異なった。まさに部下としても、人間としても、理想的な存在であった。

最終分析

高い恩賞や地位を望まず、悪事や愚策ではない限りその指示には疑念を持たずに任務遂行に集中する。しかし、それが悪事や愚策であったときには、自分の意見をはっきり発言する。これが「パフォーマー」タイプの完璧な姿である。もちろん、優秀な「パフォーマー」タイプの人材を部下とするには、「リーダー」タイプや「ブレーン」タイプの人材にも力量の高さが求められることは言うまでもない。自分にその器が無いのに、それを部下に求めても無理な話であり、公孫讃や遠紹のように見切りをつけられ去られるのがおちである。


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